A✕A✕A

テニスと芝居とアイドルと

未来への言葉展、それから。ジャニオタ最後の日のブログ。

2023年5月6日

櫻井翔 未来への言葉展 SHO SAKURAI:WORDS FOR THE FUTURE」

に行っていまいりました。

これまでも「よし!久しぶりにブログを書くぞ!」と意気込んでは書き終わらずに時間ばかりが過ぎ、お蔵入りにしたものが沢山あるんですが、今回こそは、きちんと言葉で残しておきたいと思った。

順を追っての感想の形で書こうとするときっと今までのように書きあがらずに終わってしまうので、私が感じたことをただ残そうと思う。とはいえ確実にネタバレは含みます。

時間がかかってもいいから書くぞ、と思っていたら、半年近く経っていた。いくら何でも筆不精がすぎる。でも、今だからこそ、絶対に書いておきたいと思った。今、この時期だからこそ。

私がジャニオタを名乗れる最後の日に、なんとか形にしたかった。

 

さて、六本木ミュージアム。私が嵐関係でここに来るのは2度目だ。

前回は「ARASHI EXHIBITION "JOURNEY" 嵐を旅する展覧会」だった。「嵐“と”旅する展覧会」ではなく、「嵐“を”旅する展覧会」とは一体なんぞやと思いながら向かって、出てくる頃には「なるほど確かに、嵐“を”旅する展覧会だ……」と噛みしめながら帰ってきたことをよく覚えている。

だから今回も、「櫻井翔の言葉展」ではなく、「“未来への”言葉展」であることにきっと意味があるのだろうと思いながら会場へ向かった。

展示ブース内に入って一番最初の部屋。壁一面に天井から吊るされた細長い紙、紙、紙――それらにびっしり書かれた「オトノハ」達。2008年から今に至るまで紡いできた言葉達に囲まれた空間は、圧巻だった。文字通り翔さんの言葉達に囲まれて、思わず笑いが出た。確かに翔さんの言葉と言えば「オトノハ」だけれども!

一般販売チケットもあったから、この展覧会に足を運ぶのは、熱心なファンだけじゃなくて、「へえ、櫻井くんが個展やるんだ」っていうノリで来る人だってきっといるだろうに。初手のブースがファン向けのブログ部屋なの、本当にずるいなぁこの人は、と思った。

まさか自分がまだファンになる前のオトノハを読むことが出来るなんて思ってもみなかったのですごく嬉しい。それにしても翔さん、文体というか言葉選び?文章の質感?そういった空気感が昔からずっと変わらないんですね。すごい。自分に置き換えて考えたら、十数年前のブログなんて黒歴史確定ですよ。

当然アイドルのブログだから当時から「人に読ませるもの」として書いているのは大前提だとしても、十数年経っても堂々と世に出せるものを意識して言葉を紡ぎ続けてきたの、ただただ感動してしまう。

日常であったちょっと笑える話だったり、今抱えている仕事の話だったり、決意表明だったり、とか。オトノハは「その時そのタイミングで翔さんがファンへと向けて記したかった言葉達」なんだなぁと改めて実感した。

 

この言葉展、いくつかブロックが分かれていて、それを受けて私が感じたのは「どの媒体で誰に向けて伝えてきた言葉なのか」がいつだって明確な人なんだな、ということ。

翔さんの言葉を大きくカテゴリ分けするのであれば、「キャスターとして伝えてきた言葉」というものはやっぱり外せない。news zeroの櫻井キャスターとして、伝えてきた言葉達がそこにはあった。オリンピックの取材メモやスタッフパス、震災の取材で現地に赴いたときの映像、戦争についてNewsweekの記事を書いたときのもの。そしてそれらを書き記してきた直筆のノートや、ガラケーにノートパソコン。真摯に向き合い、積み重ねてきたものの記録と記憶。

当たり前なんだけど、時が経てば経つほどに戦争当時を知る方々はどんどん少なくなっていく。当事者が語れなくなっていくものを風化させないためには、その人たちのことを語り継いでいく人間が必要だ。そして当人以外が語り継ごうとするのであれば、相応の覚悟で、「正しい形」で真実と事実を記していかなければならない。そしてこれは、戦争に限った話じゃない。

震災だってそう。今の私達はまだあの壮絶な光景を覚えている。その悲惨さを。今も残るその痕を。それでも、やっぱり時と共に風化してしまう。だからこそ記録が必要で、やっぱりその記録には正確さと、そして何より、その重さを正しく伝える言葉でもって残さなければならない。

その時に一番大切なことって何だろう、と考えると。より多くの人に正しく伝えることだと私は思う。小難しい言葉でつらつら残しても一部の人にしか伝わらない。特に翔さんは「アイドルであり嵐の櫻井翔が伝えようとするからこそ関心を持ってくれる人達がいる」ことを、自身が報道に関わる意義ととらえている。だからこそ、分かりやすく伝わりやすい言葉をきちんと選んで発信しようとしている。その彼の在り方の過程であり結果がそこにはあった。

そして今、私は正しい事実を伝えていくことがどんなに難しいか、そして、言葉が世の中に与える影響がどれほど大きいのか、言葉の力の大きさや重さを自覚せずに言葉の刃を平気で振りかざす人がどれほど多いかを心の底から痛感している。

 

翔さん×言葉展。この情報を聴いたときに真っ先に思ったのは、翔さんがこれまで紡いできたリリックだった。所謂サクラップ。いやまさかこれ堂々と公式で使われる言葉なんだとは思ったけども笑。

これまで紡いできたリリックノート。フレーズの修正跡があって、原案的な歌詞までみることができたり。いいんですかこんなにも見せてもらって!?ノートもそうだし、ガラケーやノートパソコン。言葉を記してきたアイテムを大事にとっていて、いつ、どの媒体を使って、どの言葉で何と向き合ってきたのか、そういう翔さん自身の歩んできた歴史をきちんと残してあることも、それを惜しみなく見せてもらえることも、すごくうれしい。

さて、問題のサクラップサウナ。サクラップと呼ばれるリリックの中でも、「その時の嵐」を歌った曲たちは、すごく特別だ。意図的に過去の曲とフレーズを重ね合わせ、「あの頃」「今」「未来」の嵐の点と点を延長線上につなぐ歌たち。それはかつての歴史であり今の記録であり未来への宣誓でもあり、嵐と、そして曲を聴くファンへの特大の愛だ。

その楽曲たちを翔さんのソロバージョンでリミックスした特別なサウンドを、超高性能ヘッドホンで聴けるという、嵐・櫻井翔のファンにとっては垂涎の空間。他のメンバーのパートを歌っている翔さんの声なんてめちゃくちゃ貴重だ。これの音源販売してくれないかなもっかい聴きたい……。

そしてここを「サウナ」と定義づける翔さん。サウナストーンには、嵐、山、風、夢、音…といった言葉が刻まれていた。この積み上げた石(に刻まれた言葉)から発せられる熱気を込めた歌を360度全身に浴びるように翔さんの歌声で聴くからこそサクラップサウナなんだな。山風合せて巻き起こる嵐という熱。

サウナというもの自体の仕組みと自分の伝えたい、表現したいものを組み合わせる発想力が好きすぎるし、翔さんのこれまで紡いできたリリック達が持つ力をそれほどの熱だという、その矜持が好きだ。そして本っっっっっ当に選曲がずるかった。

 

さて、サウナのあとはクールダウンの水風呂。翔さんの弾くピアノ演奏の音を聴きながら、翔さんがこれまで撮影してきた写真を眺める時間。いや翔さんのの演奏と写真ってそんなありがたい空間クールダウンになる!?と最初は思ったんだけど、確かになるほど。なんていうか、穏やかで凪いだ気持ちになった。

ピアノの音が心地よくて、翔さんの目から見た世界を垣間見ることができる幸せなひと時。言葉があるわけじゃないけれど、語りかけてくるようなブース。そういえば、私物を沢山見せてくれたのもそうだけど、香水まであったの本当にびっくりしたなぁ。茶目っ気たっぷりなコメントと共においてあって。

翔さんって、若い頃の自分すらも笑って見せてくれるの、本当に究極にアイドルだよなって思う。

展示物自体は、「言葉」じゃない。でも、意図は言葉で伝えてくれる。そして、その画像や音から届くものは、明文化できるレベルのものとして伝わってくる。

だから確かにこれらも、「言葉展の展示物」なんだなって思った。

 

さて、最後。今回のためにつくられた絵本のコーナー。

私はこのブログ内で極力「言葉展で見た言葉」を書かないようにしてきました。一部切り取った言葉を書き記すこともいやだし、一言一句違わず書き記すことができないものを、ニュアンスで残したくないから。ことこの言葉展に関しては。翔さんの言葉を、ほんの一ミリでもズレた形で私が書くのは違うと思うので。だからただ、私が思ったことを書こうと思って書いてます。

だからこそ、この最後のブースをどう書いたらいいのか、すごく難しい。翔さん自身の過去の体験を絵本にしたものを見ることが出来るブースで。それを見終えた時、私は胸がぎゅっと苦しくなった。これをこのタイミングで表に出してくれるんだなぁ。ファンはいつだって、表に出されたものだけしか見ることはできないし、それを信じるしかないけれど。強い人に弱い部分がないわけじゃないことは分かっているけれど。

そこを見せてもよいと判断して、表に出してくれる日がくるとは思っていなかった。

でも苦しいだけじゃないんです。ああ、嵐がこの5人で本当に良かった。翔さんに4人が居てよかった。そう心から思った。そして、活動休止中に櫻井翔さん個人の展覧会として開催している中での最後のエリアだったことも含めて、ああ、嵐が好きだなって思った。

これは私の持論なんですけど、「心の内、腹の内で何を考えてるか」じゃなくて「何を表に出すことを決めたのか」が大事だと思うんですよね。他人の気持ちを推し量ろうとすることはできる。けどそれを、確証をもって断定することは誰にもできない、だって本人にしかわからないことだから。

でも、その人が「表に出そう」と最終決定した意思を受け取ることはできるじゃないですか。表に出すことを決めたその選択自体が本人の意思表示だから。って、ずっとそう思ってきたんですけど。ただそれは「その人がその時表に出すことを決めた表層部分でしかない」ということもまた理解していなければいけないなと強く感じたブース。

 

オトノハみくじ(私と同じものを引いた人はこの世に何人いるんだろうか、ちょっと気になる)やフォトスポットで、その日だけの自分の思い出をゲットして、これが「未来への言葉展」の本当の最後。促されるままに未来の自分へ手紙を書いた。幼い頃にタイムカプセルに手紙を入れたことを思い出し、なんだか懐かしくなる。まあとはいえ今回はたったの一年後だ。忘れた頃に届くだとか、何書いてたっけ!?ってなったりとか、そういうことはないだろうなーなんて思いながら書いていた。

でも、今日この日に書いた言葉が、一年後に届く。過去の自分の想いが、明文化された形で未来の自分の手元に来るっていうのは、結構楽しみ。

ああそっか、きちんと言葉に記しておけば、その事実は風化せずに残せるんだな。大きな出来事を後世の為に、ってことじゃなくても、こんな個人の些細なことでも。どれも、今しか残せない言葉だから。だから、この時感じたことをもっと残しておこうと思って、ブログを書くぞと決めていた。

 

この未来の自分への手紙を書いたとき、一年後に思いを馳せた。そのころの自分、何してんのかな。今と変わるとことかあるかな、ないかも。そんなふうに、軽く考えていた。

今思えば馬鹿だったなぁと思う。何も気にせず呑気に生きていた2019年の暮れ。それからほんの数か月でコロナによって世界が一変したのに。たった数か月で予期せぬことがおこって世界が大きく変わることを経験していたのに。

 

言葉展に行った頃は、半年もしないうちにジャニーズ事務所が無くなるだなんて、思ってもみなかったな。

 

2019年活動休止が発表されてから、休止までの約2年間。嵐から沢山の愛を、言葉を、歌を貰った。翔さん曰くの誠意をこれでもかというくらいに見せてもらって。だから、この先の未来がどうであっても絶対に貰ったものだけは忘れないぞ、と思っていた。だから2020年当時、HELLO NEW DREAMの特別CMで「夢はまた嵐に会えること」ってフレーズが流れた時、泣いちゃったなぁ。ああ、それ言っていいんだって、口にしていいんだって泣いた。

 

2021年以降の私の夢のひとつ。いつかまた、5人揃った嵐に会いたい。テレビの画面の向こうで笑いあう姿を見たいし、一番はステージの上に並んで立つ姿を、嵐のつくる最高のエンターテインメントを客席から見たい。待ってていいならいくらでも待つよ。けど、待った先でもし仮に夢が叶わなくとも、あの時に貰った言葉は一つだって嘘じゃないから。そう思ってた。でもそれは、彼らが彼ら自身のタイミングで決断した結果なら、どんな形でも受け入れるって気持ちからでした。

だから、今回のことがあって、彼らの意図しないタイミングで嵐のグループとしての進退の決断をしなければならなくなったのかもしれないと思うとくやしいしくるしい。

私がいつかまた、と願っていた「5人揃った嵐が再び“ジャニーズのアイドル”としてステージに立つこと」が、もう二度と叶うことがないという現実がつらいしかなしい。嵐をここまで育て上げてJ Stormで沢山の素晴らしい楽曲や映画を生み出してくれたジュリーさんが、こんな形で事務所から退かざるをえなくなることも凄く悔しい。

 

私が生まれるよりずうっと前から当たり前にあったものがなくなる。ただの社名をこえて一つの概念、文化にすらなっていた言葉がこの世から消されようとしている。

ファンじゃなくたって「ジャニーズ」って言葉を形容詞や代名詞みたいに使っていた。目鼻立ちのはっきりしたイケメンを「ジャニーズ系」といったり、「ジャニーズなら出来るでしょ」って「ここぞというときにかっこよく決めるスーパースター」の代名詞のように使ったり。

当人たちだって「俺ジャニーズですから」って誇らしげに笑っていた。その言葉ももう聞くことができなくなるのか。

 

ジャニーズってマルチタレントの極みみたいなところがあるじゃないですか。ドラマに映画にバラエティ、CMに雑誌。MCやコメンテーター、それからキャスターをやる人もいるし、漫画家に小説家、アート方面で個展を開く人もいて。そういうタレント業を日々やりながらも、本業のショービズの世界で手を抜かない。

コンスタントに楽曲リリースがあって、毎年全国ツアーやるし、単発で大がかりなコンサートやったりする。舞台だって。歌・ダンス・演奏・芝居をやるパフォーマーでありながら、演出・衣装デザイン・作詞・作曲・振り付けといった面ではクリエイターでもある。全て自分がきちんと主体となって作り上げていく。

「ジャニーズのエンターテインメント」「ジャニーズの伝統」こんな言い回しが成立するくらいの歴史が存在するんですよ。歴代の先輩が道を開拓し、後輩はその道から更に新たな枝葉を広げ、そうやってジャニーズのエンターテインメントは歴史を紡ぎ、どんどん進化して広がってきた。

何度も繰り返し改良を重ねながら続いてきた舞台演目がいくつもある。ジャニーズのコンサート演出も歴代グループが考案したものが後輩に受け継がれ、そして新しい演出をまた後輩が生み出し、そうやって各グループの独自性がどんどん進化していく。特殊な舞台機構も派手な特効も盛りだくさんなジャニーズのコンサート。でもそれって単に豪華だから凄いんじゃなくて、やりたい表現のために惜しみなく使うから凄い。し、こういう演出を自分達発案でやれる土台をちゃんと作り上げてきたからこそできるわけで。

現代の技術力でならどういったことが出来るのか?、そしてどの会社/クリエイターに何を依頼すればそれ実現可能かっていう情報も、実際にそれを依頼できる体制があるのも、歴代のグループが積み上げてきた関係性、事務所が築き上げてきた信頼あってだと思うんですよね。

楽曲制作陣だってそう。ジャニーズの作詞作曲編曲でよく見かける人って海外の方含めかなりいて、それはやっぱり、歴代のグループが積み上げてきた信頼あって、他のグループともってことだと思うから。

だからこれが実現できるのって、タレントに実力と魅力があるからってだけじゃないんですよ。それを叶えられる環境をつくる事務所があるから、スタッフがいるから成り立つわけで。

それに毎回思うもんな、今じゃJr.だって単独コンサートやツアーがやれちゃう時代になってるのに、全グループ見合った会場をきっちり確保できて、メンバー全員のスケジュールもきっちり合わせて、その上で個々の外部仕事(レギュラー仕事持ちや映像作品の撮影のような長期スパンのものも含む)まで考慮してマネジメントやれるのすごすぎない?本業のショービジネスを疎かにせずにマルチタレントの極みとしてやってこれているのは、彼らが全力でパフォーマー、クリエイターとして邁進できるのは、裏方の関係者の尽力がなきゃ成り立たない。

 

そうやって事務所が長年積み上げてきたノウハウ、そして事務所やタレント達が得てきた信頼と人脈が次の世代、次の世代へとどんどん繋がって積み重ねて今がある。

それはもう「ジャニーズ」と形容するしか出来ないほどに独自の文化として形成されてきた。単なる創業者の名前を冠した社名ってだけの言葉じゃない。ジャニーズがやってきたことって、タレントだけじゃ成立しないんですよ。

それをちゃんと自覚しているからこそ日々スタッフに感謝を伝えている彼らをずっと見てきた。グループにもジャニーズ事務所にも高い帰属意識をもって、ジャニーズであることに誇りを持っているアイドル達のことを私は好きになった。

恩師との決別を強いられ、誇りをもって背負ってきたアイデンティティでもある帰属先の名が奪われる。一つの文化の名が失われる。「ジャニーズ」って言葉が持っていた意味合いが「創業者の名」だけに削られてしまったが故に。そのブランド力も歴史も何もかもを内包した言葉であった筈なのに。

 

凄いですね、世の中って。私が住んでいる国は、全ての人に、それこそ罪を犯した人であっても人権が保障されていると思っていました。法的に一切立証されていない、逮捕もされてない、訴えられてもいない、そんな故人に犯罪者の烙印を押すことを良しとし、その身内、関係者に社会的制裁をくわえることも、後継者に責任を取って会社を畳ませることも良しとする国だったらしい。

通常通り裁判の元に有罪判決を受けた人本人より重たい罰を事務所に現在所属する経営陣・タレント・スタッフに科すことが罷り通ってしまう世の中。こんなの普通信じられます?

一ファンの私ですらこんなにも苦しくてつらくて悔しいのに、彼らはどれほどのものを抱えて、今そこに居るんだろう。私みたいに「ありえない」「信じられない」と声を上げることが簡単に出来ない状況に置かれている彼ら。

なのに、彼らはファンに向けて、「心配かけてごめんね」と謝る。いままでと何も変わらないかのように振舞う。安心させるかのように笑ってくれる。

でも、表に出してくれる言葉がどれほど前向きなものであろうと、冷静なものであろうと、だからと言って彼らが内に抱えているであろう葛藤、悩み、苦しみ、そういったものが存在しないことにはならない。

それこそ翔さんは、キャスターであり事務所所属タレントであるという立場で、zero内でコメントしなければならないことが何度もあった。ファンにだけ向けた場所ではないところで発される言葉は、その立場その状況ですべきと判断された言葉で、きっと彼の心の内全てではない。でもそれを知る術を私は持たない。

他の人達もそう。表に出せないものを沢山沢山抱えて、それでも伝えられることをどうにか伝えてくれている。

だから、「だってこの時(あの時)こう言ってたのに」とは思わないようにしたい。表に出てきた言葉を文字通りで信じるんじゃなく、「その言葉を発することに決めた今現在の彼の意思」を信じて受け止める努力をしていきたい。

 

本人達が前を向いているならファンもそうすべきという理想はわかる。当人の決断をそのまま受け入れるべきだという正論も理解はできる。けどやっぱり「理解できること」と「納得できるかどうか/実行できるかどうか」って別の話だし、彼らは前を向かざるをえないだけかもしれないのに、「ああ言ってるってことは平気なんだな」って判断することは絶対に違う。

でも、「その言葉は本心じゃないよね」とか、「本当は凄くつらいんだよね」みたいな過度の心配を表に出すのもなんか違う気がして。だって彼らの意志は「その決断を表に出し、ファンに伝えること」に現れているのだから。最終決定した意思はそこにあるわけで。じゃあ私達が受け取れるものって、やっぱその決断だけだから。

が、それはそれとして、やっぱり私は、彼らが本心や弱音を吐露できる場所があってほしいと願ってやまない。決断の裏にある本心を掬い上げてくれる場所が、人が、ありますように。

 

彼らが決めたことは決めたこととして受け止める努力はする。それはそれとして私の感情がどうかは別の話。

だから私は「私」だけを主語として語る。私が悲しいし、寂しいし、つらいし、悔しいし、くるしい。今回の件は仕方のないことだとは絶対に言いたくない。数年後に「まあ結果としてはこれでよかったのかもね」と思えるようになる気も全然しない。

ただの嵐となにわ男子のファンで、他のグループのことは茶の間レベルにしか知らないけど、茶の間レベルでもずっと「ジャニーズ」が好きだった。私にとってジャニーズはあって当たり前の存在だったんだよ。当たり前が当たり前じゃなくなることを惜しんで、嘆いて、何が悪いんだ。

名前はアイデンティティだ。その人を形成し、その人をその人たらしめる重要なものだ。「嵐」という名でこの世に生まれ落ちたアイドルグループだからこそ、嵐で歌う為に翔さんが書いたリリックには、気象に纏わる言葉が沢山散りばめられている。それは彼らのためだけの言葉選び。そうやって名前を、所属を大切に大切に抱えてきた人達を見てきたから。

なにわ男子もそう。彼らの楽曲には、たくさん「なにわ」って言葉が入ったものがあって、その名もフレーズも「関西ジャニーズJr.出身」であることが彼らの根っこにあるから。7/28が特別な日になったのも、彼らの名前が「なにわ男子」だからで。貰ったグループ名を大事に特別にしてきた子たちを、見てきたから。

事務所の名前が変わっても、彼らがどんな道を選んでも、今私が応援している人達が「ジャニーズ」として活動してきて得た全て、何一つとして他人が勝手に傷つけていいものじゃないし、そもそも傷ついてない。その歴史も実績も作品も思い出も何もかも、彼ら自身の財産だから、誰にも奪う権利も汚す権利もない。彼らが積み上げてきたものは、何にも損なわれてなんかないのに。だから本当に、すごくすごく悔しい。なんでだよってずっと思っている。

 

あ、そうか。私は「ジャニーズという名に沢山の歴史が刻まれてきた」と考えて、だからこんなにも悔しく思っていた。

でも、その歴史は、紡いできた人の中に確かにあって、その人達がまだそこに居て、その背に憧れて入ってきた子たちが沢山いて。井ノ原快彦さんが会見で言ってたのって、こういうことか。一番大切なものはちゃんと残っているし続いていくんだ。

屋号が変わったら、今度はその新しい屋号の元に歴史が積み上がっていく。それが新たなブランドになっていく。それをやってくれる人達だったことは十分に分かっているから、私は変わらず彼らのファンで居続ける。

 

仕方ないことだったなんて絶対に言ってやらないけど、怪我の功名みたいなよかった探しもしたくはないけど。「やっぱジャニーズの在り方って、かっこいいなぁ、ジャニーズが好きだなぁ」って、2023年10月の時点でも思ってたことをこの悔しさと共に記しておこう。未来の自分の為に。今の感情を覚えておくために。何より「ジャニーズ」が自分にとってどんな存在で、どれだけ素敵なものだったかを残しておくために。

 

ロミオとジュリエットの有名なセリフ、今日ほど共感したことはないかもしれない。

「What's in a name? that which we call a rose.By any other name would smell as sweet.」

――名前がなんだというの。私達が薔薇と呼ぶその花は、たとえ違う名で呼ばれたって、その甘い香りに変わりはないわ。

 

本音を言えば、私は、その名前ごと大切で愛していた。だけど、違う名で呼ばれることになろうとも、私が大好きな彼らの輝きは決して変わらない。

……とりあえず初心LOVE、聴くか。